私がなぜ食べる筋トレレシピの専門家として活動をしているのか
こんにちは、ギール里映です。
子どもが生まれ変わる食事vol.441
先日のメルマガで、
私がなぜ
食べる筋トレレシピの専門家として
仕事をしているのかについて、
幼少期から大学時代までを
お伝えしました。
読んでない方は、
こちら!
https://www.agentmail.jp/archive/mail/661/2005/101590/
ある日突然、
私が後を継ごうと決意していた
京料理屋は、
父の一声であっさりと
たたまれてしまいました。
突然大きな進路変更を
余儀なくされた私、
しかも世間はバブル経済
崩壊後で、
就職先などはありません。
あるにはあっても、
ものすごい就活の競争にまみれて
一生懸命活動する自分の姿が描けず、
途方に暮れていた時に、
自分が子どもの頃から
やってみたかった夢を思い出したのです。
「外国で暮らしてみたい」
私の祖父はフォトグラファーだったので、
飛行機などない時代に
船でしょっ中海外に
撮影旅行にでかけていたり、
幼稚園のころから
母の友人に英語を習っていたりして、
いつか、英語を話す国で
暮らしてみたい、という思いが
ずっとありました。
実は小学校の頃からずっと
留学してみたい
という気持ちがありました。
しかしそれを父に言うと、
「女の子が留年なんかしたら
えらいこっちゃ」
という古風な考えの父だったので、
学校在学中には
この夢を叶えられず…
しかしいつか行きたい、は
絶対行きたい、に変わり、
事あるごとに父に頼んでいました。
さすがに大学を卒業した時点で
まだずっと言い続けている私に
父も根負けしたのか、
やっと、海外で学ぶことを
ゆるしてくれました。
とにかく英語圏の国にいきたい、
と思っていました。
しかし当時、
ワーキングホリデーで行けるのは
オーストラリアとニュージーランドだけ。
当時はオージーの大自然とか
ビーチカルチャーとか
ニュージーランドののんびりした感じとかに
まったく興味がわかなかったので、
行く先は
アメリカ、カナダ、イギリス
に絞られました。
しかしアメリカとカナダは、
銃を持つことができる、
と言う理由で
父から猛反対をくらい、
その結果、イギリスになった、
という経緯でした。
しかし気づいたら、
大学の専攻でもイギリス史専攻。
結局はご縁なんだなと
今では思いますが
当時、イギリスのことを
ダイアナ妃とアフタヌーンティーと
衛兵の交代ぐらいしか知らない状態で、
留学先をイギリスに決めたのです。
1994年のことでした。
もちろん携帯も、
パソコンもありません。
若干22歳、
意気揚々とイギリスに到着するのですが、
まずぶちあたった衝撃は….
ごはんが、
とても
不味い!!!!!!!
それでなくても
世界的に悪名高いイギリス料理。
しかも私は、
京都の料亭の娘。
しかしいくら料亭の娘と言っても
そんなに潤沢な資金が
あったわけではなく、
留学生なんで
とにかく安いものばかりを
食べていました。
1ポンドのピザとか、
50ペンスのサンドイッチとか。
(当時1ポンドは
160円ぐらいでした)
イギリスに到着して最初の半年は、
英語もろくにわからず、
本当につらかったことを
覚えています。
しかし今から思えば、
いくら学生でお金がないからといって、
毎日あまりにも酷いものを
食べていたせいで、
免疫力もおちて
1年のうち6ヶ月ぐらいは
風邪をひいている状態だったし、
英語の成績は
悪くはなかったのですが、
なんせ会話になると
周りが何て言っているのか
さっぱりわからず、
そのせいかとにかく自分に自信がなく、
物事をついついネガティブに
捉えてしまう、
そんな悪いスパイラルに
すっかりハマってしまってました。
今から思えば、
あの時の食事内容で、
自分に自信を持つとか、
やる気が湧いてくるとか、
ありえない内容の食事だったことが
よくわかります。
そしてまたイギリスの、
本当にこんなに不味いものを
多くの人が食べているという事実が
カルチャーショックすぎて、
肉体的、精神的にも
かなりしんどい時代を
過ごしてしまいました。
しかし当時はまだ
食事のパワーなどのことは
まったく知らないので、
まさか自分がわざわざ選んでいる
安い粗悪な食べ物のせいで
自分に自信がもてなかったり、
なんだか気分が沈みがちになる
なんてことは、
これっぽっちも
考えたことがなかったんです。
しかし、ここで
転機が訪れたのです。
続きは、明日!
今日もお読みいただき
ありがとうございます。
食べる筋トレレシピの専門家
ギール里映